2本の大河に囲まれたメソポタミア文明の治水技術


2本の大河に囲まれたメソポタミア文明の治水技術
現在のイラク周辺に栄えており、メソポタミア文明を支えた「肥沃な三日月地帯」とよばれる特異な地域をご存知ですか?肥沃な三日月地帯とは、ペルシア湾からチグリス川・ユーフラテス川、シリアとパレスチナ、エジプト一帯を含んだ歴史地理学的概念のことを指します。
ノアの洪水の逸話になったといわれるほど、突発的な洪水が多かった地域をメソポタミアの人々はどうやって治水していたのでしょうか。今回はメソポタミア文明とその治水について紹介します。

メソポタミア文明とは

メソポタミア文明とは特定のひとつの文明や文化を指す言葉ではなく、メソポタミア一帯に発生した複数の文明のことを指します。具体的には、シュメール、バビロニア、アッシリア、アッカド、ヒッタイト、ミタンニなどが代表的な国や文明になります。
最初の文明を築いたシュメール人については言語や民族系統が不明で、現在も研究されています。

バビロニアは「目には目を、歯に歯を」で有名なハンムラビ法典を記したハンムラビ王がいた文明です。
他にも、中心的な都市のバビロンはかなり巨大な都市だったため、バベルの塔の逸話のもとになった地域でもあります。

メソポタミア文明の多くは、ナイル川とエジプト文明の関係と同様に、広大な河川と共生することで繁栄をしていました。

メソポタミアの治水の歴史

メソポタミア一帯で最古の治水を行ったのはシュメール文明です。紀元前5000年ごろにはユーフラテス川とティグリス川の氾濫を利用した農耕(氾濫農耕)が始まり、後期ウバイド文化期である紀元前4300年~紀元前3500年頃には、本格的な治水事業が行われていました。
この頃の治水事業は、洪水時に河川から溢流した水を人工のため池に貯水するものであり、貯水した人工池の水はその後用水路を通って農耕地へと供給されるようにしていました。
治水と灌漑が連動しているようなシステムであるといえます。

その後のバビロニアのハンムラビ王の頃には、ティグリス・ユーフラテスの2つの大河の治水体系が整備されました。両河川の流域では毎年5月に上流の雪解け水に由来する洪水が発生していましたが、洪水時の溢水を収容するための両河川を結ぶ数本の運河と運河を連結する無数の小運河の大運河網が作られました。
この整備によって洪水の被害が軽減されるとともに、運河に溜められた水は灌漑に利用されました。
ハンムラビ王時代の治水体系はアケメネス朝(紀元前6世紀~紀元前4世紀)、サーサーン朝(3世紀~7世紀)時代でも利用されていました。

運河は何回も再整備され、良い状態を保っておりました。
しかし、10世紀以降は政治体制の混乱に伴ってメソポタミア一帯の治水は次第に衰退していき、オスマン帝国時代に治水事業によって再建が試みられていましたが、バビロン王朝時の治水体系が元に戻ることはありませんでした。
メソポタミア文明が治水に関してどれほどの技術をもっていたかが分かります。

現在のメソポタミア

メソポタミア文明が発達していた地域は「イラク」にあたります。
連日のニュースで伝えられているとおり、石油に関することやISILに関することなどの様々なことが起きています。
メソポタミアのあった地域は、今後OPECでの協議に関連した石油輸出の動向に、注目することが重要になるといえます。

おわりに

今回はメソポタミア文明と治水について説明しました。
エジプトもそうですが、昔の優れた文明の近くには必ず大きな河川があります。その河川を治水事業によってコントロールすることで、他の様々な技術も合わせて発展してきました。
そんな中でも、特にメソポタミア文明の治水技術はずば抜けていたといえます。

水と生活の歴史

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人類有史の頃から水に関する記録は様々な文明で遺されてきました。今日、私たちは労することなく水を飲み、生活はもちろんのこと大量生産のため水を使いますが、これまで培ってきた先人たちの歴史に触れ、普段使っている水がかけがえないものであることを知るためにこのサイトを制作しました。