諸国と比べ困難を極めた日本の治水


日本 風景
日本も他の国と同様に昔から治水を行ってきました。しかし、他の国と比較すると日本の治水は非常に困難を極めていました。今回は日本の治水について紹介します。

日本の治水が困難な理由

日本の治水が極めて難しいと言われるのにはいくつかの理由があります。まず、日本が3~5枚のプレートが重なっているところに位置しているため、国土が脆く、不安定な性質があることです。
プレートが密集しているため地震が起きやすいことも困難な理由にはいります。次に、台風やモンスーンが多発する地帯である点が挙げられます。河川が増水しやすく、河況係数(多水期の河川流量/渇水期の河川流量)もヨーロッパ河川の約10倍以上と非常に大きいため、洪水が発生しやすいなっています。
最後に日本における生活の中心となっている地域の性質が「沖積平野」であることがあります。沖積平野は河川の堆積作用によって形成される平野で、形成されてからあまり時間が経っていないため、かなり軟弱な地盤です。
また、河川洪水や氾濫原になりやすい地質があります。この沖積平野が日本では生活圏で多くみられ、洪水や氾濫を防ぐための治水がかなり難しいとされています。それ以外の地域でも開発などが進んだ結果、水災害を非常に受けやすくなっています。これらの理由から、日本の治水事業は非常に困難であるとされています。

古代の日本の治水

日本の治水の歴史のはじまりは弥生時代にまで遡ります。この時代の治水事業は、主に洪水が起こりやすい河川から離れて水田を耕すことが多かったようです。そして、この頃には既に排水路や土手の考えはありました。
古墳時代に突入すると、本格的な治水事業に着手しはじめます。当時は淀川や大和川が特に氾濫していましたが、「難波の堀江」とよばれる水路が建設され、安定するようになりました。この頃に建設されたとされる、「岡山市の津寺遺跡」が日本最古の治水遺跡です。

中世の日本の治水

日本での中世は戦国時代にあたります。その前までの時代では、僧侶や百姓が各々で治水対策を考案する時代が続いていましたが、戦国時代には領地的な考えのもとでの治水事業が復活しました。戦国大名や領主たちは自分たちの領地の百姓たちを洪水から守るために、能動的に治水事業に取り組むようになりました。
また戦国時代に治水が復活した一因とされているのが、この時代に日照りや干魃、疫病、飢饉、災害が頻繁に発生していたことで、国家の運営のためには治水事業などを行うことで国内を安定させることが第一と考えられたからです。代表的な治水事業としては武田信玄が作り上げた信玄堤や、豊臣秀吉による淀川沿いの文禄堤などがあります。

近世の日本の治水

江戸時代に入る頃には治水事業は以前よりも大規模なものが多くなりました。この頃は河川の瀬替えが全国で行われ、なかでも「利根川東遷事業」といわれる利根川本流を東に付け替えるといった、昔からすると考えられないような規模の事業もありました。
また、洪水が多発する地域に対しては年貢が少なくされるなどの措置がとられていました。

近代の日本の治水

日本が明治時代になると、治水事業の先進国であるオランダからの治水技術者が招待され、より近代的な治水事業が行われるようになります。オランダからの技術者のひとりであるデ・レーケが常願寺川を見て放った「これは川ではない。滝だ。」は、日本の治水事業の難易度の高さを表している有名な言葉です。
オランダの治水技術である、河道に水制を設けて流路の安定を図り、河床を掘削して流量を確保する「低水治水」を、日本の河川に合うようにアレンジして「高水治水」が考案されました。「高水治水」は、河道を直線化して高い堤防をめぐらせ、放水路で河水を海へ流下しやすくするもので、この治水技術により、日本の治水事業は大きな発展を遂げました。同時期にはアメリカに影響を受け、いくつかの多目的ダムや治水ダムが建設されるようになりました。
現在では都市水害が多発しているため、大都市に対する新しい治水事業やダムなどの府大規模な建築物だけでなく、環境全体で洪水を防止する動きなど日本の治水事業にはまだまだ課題が多く残っています。

おわりに

今回は日本の治水について紹介しました。日本は治水が極めて難しい地域ではありますが、その分治水技術は高いといえます。
今後の治水事業の発展にも期待がもてます。

水と生活の歴史

水と生活の歴史

人類有史の頃から水に関する記録は様々な文明で遺されてきました。今日、私たちは労することなく水を飲み、生活はもちろんのこと大量生産のため水を使いますが、これまで培ってきた先人たちの歴史に触れ、普段使っている水がかけがえないものであることを知るためにこのサイトを制作しました。